和服美人のおばあちゃん
祖母は昭和の激動の時代を祖父と一緒に乗り越え、父たちにとっては良き母であり、祖父にとっては最愛の賢い妻であったと聞いています。すでに他界している祖父は、口に出しては言いませんでしたが、いつも祖母を自慢にしているようでした。
父も子供のころに、祖母が着慣れた着物姿で家事をする姿が自慢だったようで、祖母が自宅に花を絶やさないことや、家を守る祖母がいたからこそ家族が豊かな気持ちで生活できたことを、折にふれ話してくれます。
私は内孫でしたが、結婚して家を離れました。それでも、祖母はときどき手料理や花を届けに私の家に来てくれました。
私が着物に興味を持ち、祖母に着付けを習いたいと言うと、祖母は自分の着物を私のために仕立て直してくれました。そのとき、祖母は自分の桐箪笥を開けて、古い着物を何着も見せてくれました。その着物はどれも、何十年も前の着物なのに、綺麗な状態で畳紙に収められていて、祖母の手入れの良さがうかがわれました。祖母から譲り受けた着物は、ただの物ではなく、そういった祖母の物を大事にする美しい心を映した私の宝物です。
今では私を含め、11人の孫や曾孫がいる祖母でしたが、遠くの親戚が集まるときには、いつもより少しだけよそゆきの服を着てお洒落をする心遣いを忘れませんでした。葬儀のときもたくさんの人が集まったので、きっとお洒落したいだろうと思い、祖母が祖父に選んでもらったという思い出の着物を棺に入れてもらいました。
社交的で、カラオケや生け花の展覧会にも精力的にでかけていました。晩年になっても家には常に祖母の生けた花が飾られており、庭に花が咲くとご近所の方にわけ、代わりに家にはないお花をいただいてくることもありました。祖母にとって花はコミュニケーションツールのひとつだったのだと思います。
そんな祖母の葬儀は、明るく優しい色の花々で飾られ、参列したすべての人に、自ら最後の挨拶をしているようでした。祖母の大好きだったピンクの花がたくさんあったのも嬉しかったです。
今年に入って入院していましたが、亡くなるまでの1ヶ月間は自宅で看護しました。声を出すことも辛くなった祖母が「私は幸せだったよ」と父と母に言ったそうです。そして、目を伏せるような仕草で、ありがとうと伝えようとしたそうです。
私たちもおばあちゃんがいてくれて幸せだったよ。これまで色々とありがとう。